合氣道への思い

昭和28年(1953年)の秋、私はなにものかに引かれるかのように九州に来て熊本に立ち寄ったのであるが、それから幾多の歳月を経て、今日ここに私が居ることになるとは神のみぞ知ることであったろう。人のやっている事は自分が意識的にやっているようで、実はそれが大きな力によってやらされているのではないかと感じるのであるが、それであるならば、なにとぞ神よ、私により善く、私により偉大なる仕事を授け給えと祈りたいものである。しかしながら人生はそう棚ぼた式にうまく行くものではない、努力し努力し頑張ってもその結果は微妙たるものである。その微妙たるものの積み重ねによってのみ人類の社会は進むのであろう。

人類社会において何か事を行うとするならば、そこには必ずや人と人との結びつきがあるが、その結びつきの良し悪しによって、それが良い結果になるか、失敗の方向に落ちていくかが決められるように思う。私が熊本に来て、中島好章先生にめぐり会うことがなかったならば、九州の合気道は今日のような繁栄はなかったと思われる。

人に心と体があるように、又生物に男女があるように仕事の上にも陰陽の役割があると思う。万生館の場合がそうである。合氣道そのものを行うものは私であり、陽の役である。万生館の陰の力になって下さったのは、故中島好章先生である。陰陽の結びが最良の状態であったからこそ長い歳月を歩んで来られたのである。

私はこれまで熊本を中心に九州各地を回り合気道の普及に努め、その間に数千の人々に技の手ほどきを行ってきたのであるが、その事がはたして良いことであったか悪いことであったか、それは私には分からない。私から手ほどきを受けた人々がその合氣道によって各々の人生にプラスに働いたかマイナスに働いたかによって決まる事であるから。それ等の人々の現状を今は知るよしもないのである。

私のこれまでの歩みは師植芝盛平翁が遺された「合氣は愛なり」を求めてさまよい続けた年月であったといっても過言ではない。私の非力をもってしては並大ていの苦労ではなかったが、今日その一端に辿りつくことが出来たように思うのである。師、植芝盛平翁が神去りましし昭和44年(1969年)の秋、東京の本部を離れて自分の道を歩く決意をしたのも、自己の組織を広める野心ではなく、何ものにも捉われる事なく、ひたすら目標への執念を燃やし続けて行きたい念願からである。翁はさぞかし非力な弟子の気迫を、霊界から眺めながらただ苦み笑いして居られることであろう。それでも私は歩み続けるのみである。

万生館合氣道館長 砂泊諴秀

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