Words of the founder 開祖のお言葉

「合氣」という言葉は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は、自分の会得した独特の道を
「合氣道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合氣と私のいう合氣とは、
その内容が根本的に異なるのである。
「合氣」とは、敵と戦い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。
神の愛の大精神、宇宙建国の御はたらきの分身、分業としての御奉公する道である。

私は、十五歳の頃から武道に志し、諸国の剣道柔道の師を歴訪した。そして、どの流儀も二、三カ月でその極意を会得してしまった。しかし、自分の意にみつるような武道の神髄を伝授してくれた人は一人もなかった。そこで、数々の宗教の門をたたいたが、ここでも具体的な答えはだされなかった。

その後、大本教の出口王仁三郎聖師のもとで十年間下坐の行を修めた。その間に教団の決められた講義は特別に受けなかったが、聖師の側近に坐って、お話を聞いているだけで、何か交流するものがあって、種々と自然に私自身の中に入ってきた。

ところが、たしか大正十年の春だったと思う。私が一人で逍遥していると、突然、天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に心身ともに軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかり、この宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。神の心とは何か?それは上下四方、古住今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。

その瞬間、私は「武道の根源は、神の愛―万有愛護の精神―である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。そのとき以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切なくなった。

武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、原子兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることであると、私は悟った。すなわち、武道の鍛練とは、森羅万象を正しく産み、守り、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することにあると、私は悟った。

「愛」は争わない。「愛」には敵がない。何者かを敵とし、何者かと争う心は、すでに神の心ではないのだ。神の心と一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす)ではない。だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。邪気のある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
絶対不負とは、絶対に何ものとも争わぬことである。

「勝つ」とは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。神よりあたえられた使命をなしとげることである。

合氣道開祖・植芝盛平翁

宇宙の和合の姿を地上に実践することは、いろいろと大変であるが、実践しなければならぬ
与えられた身心がある。これが宇宙の魂をもって、世界大平和に進まなければならないと思う。合氣道は従来の剣、槍、体術を宇宙の和合の理により悟ったものであるが、合氣道は人に勝つためではなく、戦わずして勝つためでもない。自己の使命に与えられたる宇宙の使命に打克つことである。宇宙の運化と共に進むことである。この善、正しさを、よく知らなければならない。合氣道開祖 植芝盛平翁
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